展示風景
『世界と孤独』 vol.3 -「私」のあらわれ- 
小沢裕子×村山悟郎

企画:袴田京太朗

2012
美術画廊X

撮影 加藤 貴文



「私」を切り分ける
                 袴田京太朗(彫刻家)

 シリーズの展覧会「世界と孤独」に登場するのは、全員が「孤独」な作家である。そして「孤独」であることを掘り下げ、突き抜け、その結果「向こう側の世界」とつながってしまっている。小沢裕子と村山悟郎もまさにそういう「孤独」を抱えた作家だと思うが、それぞれの作品の表出するものは大きく異なっている。
小沢は主にネット上に氾濫する映像をもとに作品を制作する。何の脈絡もない映像たちはその本来の内容から切り離され、さらに、ねつ造された字幕によってまったく別の意味を与えられる(それは時に悪意のように感じられることもある)。その結果生まれる作品は「見る主体」と「見られる主体」、あるいは「私」と「あなた」といった関係を転倒させ、映像/物語の既成概念を揺るがすことになる。それらの作品群はユーモラスというにはあまりに乾いた、なにか虚無的といってもいい、やりきれないような笑いを誘う。
 一方、村山は「支持体」「下地」「描くこと」といった、絵画の基本的な構造から発展したルールを設定し、自らがプレーヤーとなって、まるで昆虫が本能に組み込まれた方法論によって巣をつくるように、巨大なスケールの作品を制作する。また別のアプローチでは、村山が描いた迷路のような図に、今度は他人が、別に設定されたルールに従って、結果的にドローイングらしきものを描いてしまう作品など、その徹底した方法論は作品の美しさとは裏腹に、なにか偏執狂的な奇怪さを秘めている。
 作品自体には特に類似性を見いだせないこの2人の作家を組み合わせた理由は、ただ一つの共通点、「私」というものに対する極めて特異な取り組みによる。村山の制作おける、ルールをつくる「私」と、ゲームに没入する「私」と、自己生成していく作品の現場に立ち会う「私」、それらのいったいどこに「村山=私」がいるのか(あるいはいないのか)という不穏な想像。村山の分裂した「私」と、既成概念のあいだをヒラヒラと浮遊する小沢の揺れ動く「私」が重なり合ったとき、通常の2人展以上のものが生まれるような予感があった。

  ふつう「私」は、自由なイメージ、自由なやりかたで、自由に作品をつくることなどできない(それは現代特有の問題ではなく、おそらく歴史上、ただの一度も「私」は自由にものをつくったことなどない)。しかし誤解を恐れずにいえば、作品はあらゆるものから自由になることで「良い作品」足り得るのだ。それらのことを自覚し、少しでも自由に近づくために、もう一人の「私」が登場する。
 もう一人の「私」は、ある時は「扱いにくい素材」「厄介な方法論」「俗っぽいモチーフ」といった不自由さを制作に持ち込み、ある時は膨大な作業を機械のように淡々とこなし、ある時は本来の制作のあるべき方向から逸脱した未知の作品をねつ造する。それがプラスであれマイナスであれ、少なくとも作品と呼べるようなものをつくるには、まず「私」を切り分けることが必要なのである。
 「私」を切り分ける。あるいはもう一人の「私」に「私」と同じ権利を与える。そこにある相対化された関係が生まれ、「私」という完結したものが崩れ、他のものと接続する準備をする。もはやそこには制作に絶対的な決定権を持つ「私」は存在しない。その「私」は脆弱でしばしば作品を完成に導く力を持たない。しかし同時に開かれてもいるのだ。そして脆弱で開かれた「私」は、素材や空間や日常といった人の手からは決してつくり出すことができないリアルが、向こう側の世界からゆっくり訪れるのを、辛抱強く待つことができる。

Installation view
"Stand alone & World" vol.3 -phenomenology of the self-
YUKO OZAWA × GORO MURAYAMA

Organizer: Kyotaro Hakamada

2012
art gallery X

photo by Takafumi Kato